776048 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

VICTORIOUS☆KOBE

VICTORIOUS☆KOBE

ヴィッセル神戸、J昇格への道・1

-ヴィッセル神戸、J昇格への道・1- Jリーグへ、震災経由…


1994年6月に運営会社「神戸オレンジサッカークラブ」が設立され、3ヵ月後の9月にはチーム名が17518通の一般公募から決定した。
「ヴィッセル(VISSEL)」とは、英語の勝利「VICTORY(ヴィクトリー)」と、船「VESSEL(ベッセル)」を合わせた造語。
「勝利の船」「勝利の船出」を意味し、国際港湾都市神戸をイメージするとともに、
市民の夢を乗せ、勝利に挑戦し続けるチームであることの誓いを込められた名称である。
運営会社設立、チーム名称決定。これでアマチュアの企業チームから、Jリーグを目指すプロチームとしての骨格が整ってきた。

名称募集
チーム名募集のポスター。サッカーボールの左側には「123年目の夢」と書いてある。
日本にサッカーが伝わったのが1873年。それから123年目(1995年)に神戸にプロサッカークラブが出来るという意味。


11月、Jリーグが準加盟(一定条件をクリアしたらJに昇格)を承認。
12月には新監督にサンフレッチェ広島を1994年Jリーグ優勝(前期)に導いたばかりの知将、
スチュワート・バクスター(元・南アフリカ代表監督)の招請も決定した。
横浜フリューゲルスから地元出身のGK石末龍治、広島からDF松田浩ら8人のJリーガーが相次いで入団し、
チームの基礎は着々と固まっていった。そして、満を持しての合同練習初日を迎える。
ヴィッセルが当時、報道陣向けに発行した日程表にはこう記されていた。
『1月17日午後2時から、ユニバーシアード補助競技場…』

ヴィッセル神戸初代監督 S・バクスター
1994年12月、バクスター監督内定記者会見。左より土谷社長、バクスター監督、安達GM。

神戸市民、いや兵庫県民には生涯忘れることのできない阪神大震災が、市民チームを目指すヴィッセルの
始動日をいとも簡単に踏みつぶしてしまったのだ。練習場自体は被害はなかったものの、競技場は避難所に様変わりした。
不幸中の幸いだったのは、この時、選手の半分以上がまだ川鉄チームのある岡山に住まいを置いていたことだった。
フロントの機転で、神戸に残っていた選手らは車4台に分乗、チームの前身である岡山・倉敷の川崎製鉄グラウンドに疎開した。
2月6日には何とか初練習を行ったが、初代主将になったGK石末は当時、
「もうサッカーができないのではないかと、不安で仕方なかった」と話している。

倉敷の練習場 倉敷での練習風景
倉敷で練習をするヴィッセルイレブン。※去年とは1995年の事です。


そんな不安は図らずも的中した。メインスポンサーのダイエーが3月に撤退を発表したのだ。
ヴィッセル神戸(=オレンジサッカークラブ)では、資本金10億円のうちダイエーが50%の5億円を出資。
しかも、運営会社の社員18人のうち12人がダイエーからの出向だった。ヤンマー出身で、
神戸のJ昇格のキーマンとなった安達貞至ゼネラルマネージャー(後に横浜フリューゲルスGM(1997.1~1998.9)。
2000年~2003年までJリーグ・マッチコミッショナー、2004年JFL・マッチコミッショナー、
2005年5月に神戸に9年ぶりにGMとして復帰!)は
「口では『絶対存続』を叫んだが、気持ちの上では『解散やむなし』と一時はあきらめました」という。
ところが、土壇場になって、サッカーとは関係のないところでヴィッセルに風が吹く。
「オレンジクラブの幹部が、撤退を命じたダイエーの中内功会長に『撤退は従いますが、ヴィッセルに金を残してほしい』と
直談判したんです。「総帥」に出向社員がタテをつく。相当な覚悟だったのでしょう。
当時ダイエーはメジャーリーグのシンシナティ・レッズから外野手ケビン・ミッチェル獲得に
7億円の無駄金をはたきプロ野球界の失笑を買ったばかり。
ヴィッセルだけを冷淡に扱うわけにもいかず、結局は5億円をそのまま残すことになったんです」(地元関係者)

大震災によりダイエーがスポンサーから完全撤退し、
運営会社オレンジサッカークラブへの出向社員が離脱したため、再編成を余儀なくされる。
発注を済ませ、既に出来上がっていたユニフォーム・サッカーパンツ・ストッキングには
白と黒の縦縞にオレンジのラインが入っていたが、ダイエー撤退に伴いチームカラーもオレンジを使うことをやめ、
エメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)をチームカラーとした。

幻のユニフォーム!!
幻のオレンジ色ライン入りユニフォーム

この後、新たなスポンサー捜しの結果、5月31日に運営会社名を「ヴィッセル神戸」に改称。
ダイエーの残した5億円は「運転資金」として利用することができた。
震災前にポートアイランド・北埠頭駅すぐにあった本社は三宮・琴ノ緒町のこくみん共済が移転した後のビルに入る。
同月、ついに始まった1995年度のJFLで、肝心のチームは開幕3連敗。
大震災は想像以上にチームに深い傷を与えており、J昇格どころの話ではなかった。


~つづく~


© Rakuten Group, Inc.